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彫刻家 高田博厚 とは?

ページID:0003369 更新日:2023年12月19日更新 印刷ページ表示

高田 博厚(たかた ひろあつ) 彫刻家 1900-1987

高田博厚
 石川県鹿島郡矢田郷村(現七尾市岩屋町)に生まれる。父安之介、母登志。兄2人、妹1人。安之介は司法官を辞して郷里福井で弁護士となるも博厚が10歳の時に他界、登志は屋敷を処分し、博厚と妹の3人で3部屋の下宿に移り住む。

 父が遺した遺産で二十歳ごろまで暮らしていた、というから、博厚が収入をほとんど得ずに芸術や文学に打ち込むことができたのは父の遺産によるところが大きい。実際には父親代わりの長兄が博厚の生活を支えていたこともあるのだが、浪人時代に長兄も急逝してしまい、以降の糧を得る手段は父親の遺産しかなかったということである。

若き日の高田博厚の写真
 1913年(大正2年)、県立福井中学校(現福井県立藤島高等学校)に入学。県からの視察がある折には、国語、漢文、英語など必ず博厚を指名し立たせて朗読させたというエピソードが残るほど優秀な学生であった。しかしその一方、二年次ころから教科の勉強をしなくなり、文学、哲学、美術に傾倒しはじめる。原文でシェークスピアを読み、英訳本でゲーテ、トルストイ、ドストエフスキーを読みこなした。

 中学から第一高等学校(旧制一高)へ進学するため上京するが、東京の中学を卒業した者でなければ受験できないと知り、諦めざるを得なかった。実は博厚は中学時代に宗教に傾倒し、学校にも行かず卒業できるかどうかも怪しい状況にあったため、母に中学落第を告げるよりも第一高等学校を受験できなかったと伝える方が易かった、というのが本当らしい。そしてどういうわけか東京美術学校(現東京藝術大学)を受験する。結果、不合格となって浪人、そのまま東京に居ついた。

 受験に失敗した博厚は、初めて描いたという自画像を持って高村光太郎(詩人、彫刻家)を訪ねる。高村は十七も年の離れた博厚を友人として遇し、その後生涯に渡って交友関係を保つことになる。高村は博厚の自画像を見て岸田劉生(画家)を紹介した。博厚は意気揚々と岸田の下へ向かったが、ちょうどそのころ劉生は後の代表作となる「麗子像」を描きはじめており、その描きかけの作品を見て「一生かかってもかなわない」と、いたたまれなくなって早々に辞去したという。
高田博厚の自画像

 博厚の長兄により嫌々出席させられた『ホトトギス』の句会で出会った岩田豊雄(筆名獅子文六、作家)に外国語学校(現東京外国語大学)受験を勧められ、1919年、19歳で外国語学校イタリア語科に入学する。ルネサンス期の古典などをイタリアから買付けては片端から読み漁り、『白樺』に『ミケランジェロの手紙』の翻訳を連載する一方、出席日数が足りなくなって落第、自主退学する。その年に沢田庚子生(さわだ かねお)と結婚した。このころより女性のトルソを造りはじめるが、生活は困窮する。

 関東大震災(1923年9月)を境に、家計はますます苦しくなった。1924年には亡父の遺産をはたいて荻窪にアトリエを建てたが、腸チフスに感染し帝国大学病院に入院、大出血で死に瀕した。退院後には本の一冊も手元に残っていなかったという。

 1931年、妻と4人の子どもを残し、単身パリへ渡る。スイスのロマン・ロランに招かれ、彼の家に滞在していたマハトマ・ガンジーをスケッチした。以降27年近くパリに滞在する。

 早熟で日本においても早くから西洋思想に触れていた博厚であったが、パリに渡った博厚を待っていたのは、剥き出しの西洋思想と西洋の思索伝統だった。博厚はフランス滞在中に文豪ロマン・ロランや哲学者アラン、詩人ジャン・コクトーらと幅広く交流し、彼らから多くを吸収した。西洋思想において通底する神とは何か、芸術とは神の顕現なのか…。博厚の思想の根底には常に一つの問いがあり、これが生涯を通じての彼の命題となっていたように感じられる。博厚は自伝の中で次のように書いている。

 「観念(イデア)、これは「人間のもの」である。それが「自然」に繋がり解き放たれると、「空間」の思想が生まれる。「人間」の中に存在し続けると「神」という純粋概念になる。これらの二つに違いがあるかないかは、思考の極限が「形」を為す段階ではじめてわかるであろう。そして、言いかえれば、これは「経験」の集積において示されるのだろう…私の長いフランス生活で、自分の「思索」は絶えずこの課題を囲(めぐ)ってであった…」(『分水嶺』)

 博厚は熱心なクリスチャンであった母によって2歳ごろからプロテスタント教会に連れて行かれ、12歳で洗礼を受けた。博厚がキリスト教的感覚や思索に日本人の感覚を超えた理解を持ち得たのは、母の影響が少なからずあったはずである。渡仏後パリで母の訃報を聞いた博厚であったが、後に「幼い時から、クリスティアンだったこの母に薫陶(くんとう)されなかったら、私は一生「神」を考えつづける人間にはならなかったろう」(『分水嶺』)と記している

 博厚にとっての思索とは神に到達する経路であり、彫刻とは直接的に自我と対話し、奥に潜む神に至る方法であると考えられる。博厚は日本人彫刻家として唯一その域に達した人物として評されたほどである。
ロマン・ロランからの書簡の写真

 1957年に帰国するが、帰国前にはフランスでの作品を全て壊し、大量の本だけを持ち帰る。帰国後は東京に住み、新制作協会会員、日本美術家連盟委員、日本ペンクラブ理事、東京藝術大学講師などを務め、1966年の九州産業大学芸術学部創設に関わってからは徐々に引退をはじめ、同年に構えた鎌倉稲村ヶ崎の住居兼アトリエにおいて制作に専念するようになる。

 1987年6月17日、86年の生涯を終える。

マハトマ・ガンジー像の写真
​マハトマ・ガンジー(インド独立の父)1869年-1948年

宮沢賢治像の写真
​宮沢賢治(詩人、童話作家)1896年-1933年

高村光太郎像の写真
​高村光太郎(詩人、彫刻家)1883年-1956年

高田博厚没後30年展

東松山市立高坂図書館2階大会議室において、平成29年6月1日から7月2日の日程で開催されました。
 作品は彫刻の他、デッサン、パステル画、自画像などを展示。更にロマン・ロランとの往復書簡や献辞入りの書籍を展示するなど、小展ながら高田博厚の思索に迫る構成をとっておりました。
 多数の方にご来場いただき、好評のうちに展示を終えました。

展示の様子の写真
アトリエを再現した展示の様子

高田博厚没後30年展

高田博厚没後30年記念イベント「思索の灯」

平成29年6月17日、松山市民活動センター・ホールにおいて開催されました。

第一部講演
浅見 洋氏(石川県西田幾太郎記哲学館館長)
室町澄子氏(元NHKラジオ深夜便アナウンサー)
高橋 純氏(国立大学法人小樽商科大学名誉教授)

第二部コンサート
高橋在也氏(ピアノ)
渡邉健治氏(ヴァイオリン)
井村果奈枝氏(チェロ)
菱沼絢子氏(朗読)
石原麻伊氏(絵画)
演奏に合わせた朗読が披露される中、背景には場面を象徴する絵画が投影されて幻想的な雰囲気のコンサートでした。

高田博厚没後30年記念イベント「思索の灯」チラシ

高田博厚没後30年記念イベント「思索の灯」の様子(動画)

第一部(画像をクリックすると別サイトにジャンプします)

高田博厚没後30年記念  思索の灯第一部講演会の様子の動画<外部リンク>

第二部(画像をクリックすると別サイトにジャンプします)

高田博厚没後30年記念思索の灯コンサート第2部の様子<外部リンク>

高田博厚関連動画

高田博厚没後30年記念イベント「思索の灯」

高坂彫刻プロムナード 高田博厚彫刻群

案内看板写真
カテドラル写真

高田博厚関連事業は、地方創生応援税制(企業版ふるさと納税)により、企業からの寄附を活用しています。

寄附をいただいた企業について

  ・株式会社リマインド

高坂彫刻プロムナードパンフレット [PDFファイル/13.83MB]

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