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大河ドラマに登場!比企氏とゆかりの地紹介

ページID:0004261 更新日:2023年2月28日更新 印刷ページ表示

 このページでは、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場する比企氏と、東松山市にある比企氏ゆかりの地を紹介します。

ドラマ登場人物と比企氏の歴史

源頼朝と関係の深かった、比企氏相関図

比企氏関係図

鎌倉幕府の影の立役者、比企尼

 比企尼(ひきのあま)は、出家するまでは比企局と呼ばれていた女性です。夫が武将源義朝(みなもとのよしとも)に仕える武士だったため、義朝の三男頼朝(よりとも)の乳母(育ての親)に指名され、京都で頼朝を育てていました。

 頼朝が13歳のころ、義朝が平治の乱で敗戦し、頼朝も罪人として伊豆で監視されながら暮らすことになります。そこで、比企局は比企の地へ移って出家。その後20年もの間、比企の地から伊豆で暮らす頼朝へ、月に1度、監視の目をかいくぐって食料等の仕送りをしました。のちに鎌倉幕府を開く頼朝を長きにわたり支えた比企尼は、歴史上の重要人物なのです。

鎌倉殿を支えた御家人、比企能員

 比企能員(ひきよしかず)は、比企尼の養子で、頼朝の御家人(将軍に仕える武士)でした。頼朝は、伊豆にいた20年間支援してくれた比企尼に恩を感じていましたから、その子である能員は頼朝から信頼されており、頼朝の長男頼家(よりいえ)の乳母父(育ての親)に指名されました。

 その後、能員の娘若狭局(わかさのつぼね)が頼家と結婚し、二人の間に長男一幡(いちまん)が生まれました。これにより、のちに能員は将軍の母方の親族である「外戚」として、大きな権力をもつようになります。

比企氏と北条氏の権力争い

 同じく御家人であった北条時政(ほうじょうときまさ)は、「頼朝の次男実朝(さねとも)の母方の親族」でした。似た立場の能員と時政は、それぞれが「自分の孫が次の将軍になれば更に大きな権力を持つことができる」と考え、対立することとなります。

 頼朝の死後、二代将軍となった頼家が若すぎたため、政治決定については13人の御家人が将軍を支えることになりました(十三人の合議制)。能員もその一人で、頼朝の代からの信頼関係のもと、頼家から特に頼られ、外戚として権力を持っていました。一方時政は、「このままでは次の将軍は一幡になってしまう」と思い、いよいよ能員が邪魔だと考え始めます。

時政が能員を暗殺、そして比企氏滅亡

 頼家が病気で倒れた時に、時政を中心とする一部の御家人が一幡と実朝への相続方法を勝手に決めてしまいました。これに能員は不満を持ち、ついに時政暗殺をたくらみます。

 しかし、時政はそのことを密かに知り、先に能員を暗殺してしまおうと「法事がある」と嘘をついて自宅に能員を呼び出しました。そして時政は、法事と信じて武装せずにやってきた能員を暗殺。比企氏の屋敷も襲われ、一幡を含めた比企氏は滅亡しました(比企の乱)。

 歴史の表舞台で比企氏が活躍したのは、年数にして、ほんの20年ほどだったと言えます。

伝承の歴史的価値と、大谷地区に残る伝承地

勝者が記した文献は、全てが事実とは限らない

 上で説明した比企の乱の記述は、北条氏のもとで書かれた鎌倉時代の文献「吾妻鏡」によるものですが、「能員は、対立している北条氏の家をなぜ武装もせずに訪問したのか」との疑問から、能員の時政暗殺のたくらみ自体が作り話ではないかと考える専門家がいます。つまり、能員暗殺を正当化するために、「先に能員が暗殺をたくらんだ」と書き加えたのではないかとも考えられるということです。

 書物として残されている史料は歴史を知る上でとても重要ですが、歴史上の勝者や権力者が自分に都合のいいように書いた可能性があるのです。

「伝承」こそ、教科書に載らない敗者の歴史

 昔のことを知る方法として、「口頭伝承」もまた、立派な史料の一つです。誰でも気軽に書き残すことができなかった時代の、特に敗者や地位の低い人々のことを知るための重要な情報と言えます。

大谷地区に残る6つの伝承

 大谷地区には、「比企の乱の後、若狭局と一族の一部が逃げてきて、この地に住んだ」とする伝承が残されています。

比丘尼山(びくにやま)の伝承

​ 比企の乱の後、頼家も北条氏に暗殺され、夫を失った若狭局が逃げてきてここで暮らしたという伝承があります。若狭局は、ここに「大谷山寿昌寺」という寺を作り頼家を弔ったと言われいます。寿昌寺は現存しませんが、場所を移して「宗悟寺」と名を変え、今も残っています。
比丘尼山

須加谷(すかやつ)の伝承

​ 若狭局が、夫を失った悲しみを蛇に巻き付かれたような苦しみになぞらえて、苦しみを鎮めるために「蛇苦止観音」を作り祈願したと言われています。観音様はこの地にあった菅谷観音堂に祀られていましたが、廃寺となり、現在は宗悟寺に祀られています。
須加谷

串引沼(くしびきぬま)の伝承

​ 若狭局が夫を失った悲しみを忘れるために、形見であった鎌倉彫の櫛をこの沼に投げ入れたという伝承があります。現在、沼はゴルフ場の敷地内にありますが、外から眺めることができます。
串引沼

城が谷(じょうがやつ)の伝承

​ 埼玉県史等には、この地に比企氏の館があったと書かれています。比企氏の館があったとする伝承はここ城が谷、岩殿、古凍、滑川町三門館、川島町金剛寺の5か所に残っていますが、館跡はどこからも見つかっていません。
城が谷

梅が谷(うめがやつ)の伝承

​ 若狭局が年老いてから、この地に住んでいたという伝承があります。きれいな水が涌く泉や梅の木があったと言われています。
梅が谷

扇谷山宗悟寺(せんこくさんそうごじ)の伝承

​若狭局は頼家の位牌を作って冥福を祈ったとされており、その位牌が残されています。また、蛇苦止観音像も今に伝わります。
宗悟寺

宗悟寺に伝わる頼家の位牌(左)
と蛇苦止観音像(右)
位牌と蛇苦止観音像

比企氏とゆかりの地 資料ダウンロード

 比企氏と市内のゆかりの地についてまとめた資料をダウンロードできます。こちらは、広報ひがしまつやま令和4年2月号に掲載した「特集 鎌倉殿を支えた比企氏を知る」を一部編集したものです。

鎌倉殿を支えた比企氏を知る[PDFファイル/3.89MB]

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