ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

本文

青鳥城跡

ページID:0003776 更新日:2023年2月28日更新 印刷ページ表示

青鳥城跡

青鳥城の構造

 市内石橋に所在する青鳥城跡は東松山台地の南縁に位置し、南面を天然の崖、その他三面を土塁と堀で守る平城です。本郭を取り囲むように二の郭・三の郭が造られており、一部土塁と堀が現存しています。

 二の郭北面の堀と土塁には、「折(折邪)」と呼ばれる、あえて土塁と堀を折り曲げることで、外敵への攻撃面を増やす工夫が見て取れます。土塁頂部から掘り底まで約6~7mもの比高差があったと推定されており、現在の見た目以上に堅牢な守りであったことがわかります。また「おため池」と呼ばれる城跡東に所在する池も二の郭の堀の一部と考えられています。

航空写真
航空写真(南から撮影)

土塁
堀側から見た二の郭の土塁

測量図
青鳥城跡の郭と土塁・堀

文献にみえる青鳥城

 青鳥城跡の築城時期と城主については諸説あり、はっきりとはわかっていません。ただ多くの文献や伝承などにその痕跡を見ることができます。

 もっとも古くは青鳥判官恒儀が築城したとの伝説があり、城名の由来となっています。ただ青鳥判官恒儀が没したのが天長6年(829)とされ、近年の調査成果や周辺の同時期の状況を踏まえて考えると築城時期がここまで遡るとは考えにくのが現状です。

 『源平盛衰記』には源頼朝が寿永2年(1183)に出陣した際、「青鳥野に在陣」との記述がありますが、城跡や館跡の存在を示す記述はありません。

 市内神戸に所在する妙昌寺の縁起によると、同寺を開基したのが青鳥城主・藤原利行とされ、日蓮上人が文永8年(1271)に佐渡へ流罪となった際、青鳥城に宿泊したと書かれています。

 『鎌倉大草紙』などの複数の文献には上杉憲実が永享12年(1440)の結城合戦の際、「野本・唐子に逗留」したとの記載があり、この場所を青鳥城とする意見もあります。

 また「太田道灌状」によると文明10年(1478)に青鳥城に在陣したとの記述があります。

青鳥城の築城経過とその後

 様々な文献にみえる青鳥城の痕跡と、発掘調査で出土した遺物、現存する遺構の状況などから青鳥城跡の築城経過を推定すると、13世紀初頭から14世紀初頭ごろ(鎌倉時代)に、青鳥城跡の前身となる武士の館が整備され、その後15世紀初頭から16世紀末頃に、関東の覇権をめぐる争いが激化したことを受け、現在のような複数の郭・土塁・堀をそなえた城へと拡充再整備されたと推定されています。

所在地

石橋2104、1319-1ほか

指定年月日

昭和9年(1934年)3月31日(埼玉県指定文化財-史跡)