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弘安四年銘板石塔婆

ページID:0003722 更新日:2023年2月28日更新 印刷ページ表示

弘安四年銘板石塔婆

 青連寺(正代)境内に所在するこの板碑は地上高223センチメートル、最大幅61センチメートルあり、阿弥陀如来を示す梵字(キリーク)を刻む種字板碑です。銘文から、小代重俊の仁徳を慕った諸衆が合力し、弘安4年(1282年)に造立したことがわかります。
 小代氏は小代郷(現在の正代一帯)を名字の地とした武蔵七党・児玉党の武士です。源頼朝の子・悪源太義平が建てたとされる「小代ノ岡ノ屋敷」を、義平の家臣である入西遠弘が受け継いで小代氏を名乗ったことが始まりとされています。
 遠弘より数えて四代目にあたる重俊(遠弘→行平(子)→俊平(甥・養子)→重俊)は、生没年等は不明ですが、宝治元年(1247年)の宝治合戦において、重俊の子・重康に勲功があったことが評価され、父・重俊が肥後国野原荘(現在の熊本県荒尾市)の地頭職に補任されます。その他、土佐国稲吉(現在の高知県南国市)など、各地の地頭職に任ぜられましたが、重俊そのものは小代郷に留まり続けたと考えられています。文永8年(1271年)、蒙古襲来への備えとして、西国防衛のために直接下向するよう鎌倉幕府に求められた小代氏一族は、高齢の重俊を残し、惣領である重康以下が野原荘に拠点を移します。
 板碑を造立した「弘安4年(1281年)」が二度目の元寇の年と重なるため、重俊の供養と下向した惣領たちの武運長久を願って建立されたものとの考え方もありますが、碑面に直接的に「元寇」とのかかわりを示す記載が無いことから、「元寇」と結びつける考え方に否定的な見方もあります。いずれにせよ、小代氏、ひいては武蔵武士と領地の関わりを示す資料として高く評価されています。

弘安四年銘板石塔婆の画像
弘安四年銘板石塔婆

所在地

正代864‐1(青蓮寺)

指定年月日

平成15年(2003年)3月18日(埼玉県指定文化財―歴史資料)