この獅子舞は、修理した時、太鼓を修理した際に『寛政三年(1791年)六月吉日・武州熊谷梅町・太鼓屋三左衛門』と墨書されていたことから、230年ほど前から始められたと考えられます。古くは神戸(かんべ)家(旧善能寺)で支度を整え、神戸神社まで街道下りを行っていました。善能寺が焼失してからは総代の家より、昭和3年(1928年)からは社務所で支度を整え、地区内を回り街道下りを行います。昭和41年(1966年)頃には奉納が困難となり、獅子舞演技が中止となってしまいました。村には「獅子舞の風にあたると病気にならない」との言い伝えがありましたが、獅子舞を中止した途端、赤痢や疫病などが流行ってしまい、一転演技復活の機運が高まり、昭和47年(1972年)有志により保存会を結成し、復活を果たしました。数年の休止でしたが、多くの演技内容が忘れられ、演技に関わってきた人の記憶をたどり、現在の舞の形態があります。夏の禮大祭では、神社の境内に、16俵の俵で土俵を作り(直径4メートル40センチートル)、舞庭が作られ、前庭・後庭に分け、神社に奉納します。その他では、昔、干ばつの時「昭和26年(1951年)」、「鞍掛渕(現在のくらかけ清流の郷)にすりこむ」といって、「戌亥黒雷天(いぬいくろらいてん)」の旗を先頭に、竹製の神輿と共に鞍掛山の麓の都幾川に隊列を成し練り込み、雨乞いの舞を捧げたと言われ、その帰途途中から「雷雨」に見舞われたと、長老が伝えています。また、疫病の時も、舞が奉納されたとも言われています。三匹の「獅子頭」は、見事な顔立ちで、特に雌獅子は、「一本角」で、舌を出しているなど、ひょうきんな姿も表現しており、地区の宝として、後世に残すべき貴重な文化財です。
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千早振る 神のえがきに苔はえて これも久しき氏子なるらん
ささらおば 褒めて謗らずお褒めあれ きのうや今日の習いで揃う
むさしのに はばかるほどの梅の木に 富士より高きうぐいすの声
奥山の 岩へ雌獅子が巣をかけて 岩を崩して雌獅子を尋ぬる
あれ見さい 雨が降るそうで雲が立つ 雨の支度で沖は荒波
あれ見さい 沖に竜立つ見いにける 雨の支度で沖は荒波
あれ見さい 雨が降るそうで雲が立つ 女波・男波で沖は荒波
あれ見さい 雨が降るそうで雲が立つ おいとま申して帰りおさらば
7月24日、7月25日に近い土曜日・日曜日
神戸神社(神戸875)
昭和55年(1980年)1月10日(東松山市指定文化財―無形民俗)