青鳥城跡は、古伝によると天長年間(830年頃)に青鳥判官藤原恒義の館があった伝えられていますが、築城がそこまで遡ることは考えにくく、早くても平安時代末期に武士の館として造られたものと考えられます。現存する土塁や堀などの築城様式から、南北朝期に館を城に拡充整備したものと考えられ、戦国期には、松山城に最も手近な出城であったと考えられています。最後の城主は、松山城主・上田朝直の家臣、山田伊賀守直安と考えられます。
石橋2104、1319-1ほか
昭和9年(1934年)3月31日(埼玉県指定文化財―史跡)